vanish【PDF】
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発行日 : 1996.05.03,1996.06.09,1996.10.20(初版) 標準プリントアウト時 A6(文庫サイズ)/ 67ページ / 2.4MB ●1996年に発行した『Green green green』『フロンティア』『vanish』の3冊からの抜粋短編集。 ●なんとなく原作ベースのもの、まったくのオリジナル設定のものなど、作品内容はバラバラ。 ●収録作品は以下の5編。 風と光と緑の中へ FRONTIER Green green green Requiem 遠い空
〔本文見本〕
端末から、いつものように自分のメールボックスを覗く。そこにあるのは、いくつもの論文の写しと地球での最新の実験結果、地上の主なニュースを集めたファイルと彼のいる施設内の回覧板だ。その中に、今日は一つだけ違ったものが含まれているのに気づいて、当麻はしばし動きを止めた。 地球からのごく個人的な電子メール。送信者のIDも氏名も、いやという程よく知っている。 「今日はなんだ?」 思わず呟いて、彼はファイルを開く。 それから目を細め、表示された文字をゆっくりと読んでいくのだった。 開け放った窓から気持ちの良い秋の風が吹き込んで来て、征士はふと手を止めた。斜め前の窓から見えるのは、隣の家の少し汚れた白い壁と、細長く切り取られた青空だ。 席を立ち狭いベランダへ出ると、右の家からバイオリン、二軒先の家からピアノの音が聞こえている。静かに晴れた秋の日には、そんな風に音楽を奏でたくなるものなのだろうか。自分も論文発表の下準備などやめて少し余裕を持ったほうがいいかもしれない、と思う。 そうしてぼんやりしていた征士を、部屋の中で鳴った電話のベルが現実へ引き戻した。 「はい、もしもし」 伊達です、と名乗らなくなったのは一人暮らしを始めてからだ。まったく知らない人から掛かってくることが多かったから。 「あ、征士? 俺」 俺、で分かると思っているような奴はそれほど多くない。ましてやこの電話の声は、征士にはひどく懐かしいものだった。 「当麻か? 日本にいるのか?」 「うん、今、成田。これからそっち行ってもいいか?」 相変わらず唐突で、勝手で、そして何の苦もなく征士の中に入り込んでくる。 「勿論。気を付けて来い」 「やった。じゃ」 ほんの数秒で終わる通話。そんなものでさえおよそ一年ぶりであるのに思い至って、情けないような気持ちを持ってしまう。それを振り払うように小さく首を振り、征士は机の上に広げたままの資料を閉じた。ノート型のパソコンも閉じて、窓も閉める。それでも聞こえてくる楽器の音は、どこまでも平和で、自分のいちばん幸せだった時を思い出させる。どうあがいても戻れはしないのに…… くだらない感傷だ。 寂しそうな苦笑いを浮かべて、キッチンへと向かう。 当麻の声を聞いた途端に、コーヒーを飲みたくなった。 いつもはあまり飲まないくせに、飲むときには必ず征士は豆からいれる。少しずつ買って冷凍保存してあるコーヒー豆は、常に二種類。ブルーマウンテンと、マンデリンかブラジル。 洗ってあった食器を片付けながら湯が沸くのを待って、それから豆を挽きはじめる。当麻にもらったコーヒーミルは、安定感があって使いやすい。使う程に馴染んでくるこのミルを、当麻は一体どこで手に入れてきたのだろう。そしてそれは、果たして征士のためだったのか、それともコーヒーを飲みにくる当麻自身のためだったのか─── 当麻が来たら聞いてみよう。そう思いながら豆を挽く。手動のミルがゴリゴリと音をたてる。そうしていれたブルーマウンテンは、最初の頃よりずっとおいしく感じられた。 久しぶり、と言って当麻は荷物を下ろす。さほど大きくもないバッグひとつでやってきた彼は、さっさとソファに座り込んで大きなあくびをした。 「手洗い、うがい」 征士にきっとにらまれて、やれやれと当麻は立ち上がる。外から帰ったら手を洗いうがいをしろ、とは、トルーパーの仲間たちと一緒に暮らしていた頃から征士によく言われていた事だ。それを思い出して、よくよく自分たちは変わりばえがしないなと苦笑した。 征士は棚の奥の方からサイフォンを取り出す。一人の時には使わない、殆ど当麻専用となっているコーヒー用サイフォンだ。 「あ、いいねえ」 準備している征士のそばへ来て呟くと、台所の椅子に腰掛けて、当麻はその様子を眺め始める。何故か当麻がこだわっているアルコールランプは、新しいアルコールを入れられたばかりのようだし、サイフォン用のフィルターも新しいもののようだ。その新しいフィルターを消毒するために征士は別に湯を沸かし、その消毒が終わる頃にはサイフォンの中のお湯も小さく沸騰を始めた。 「ミルクはいるか?」 肯く当麻を見て、征士は牛乳をあたためる。ミルクを入れたり砂糖を入れたり、あるいはブラックのままで飲んだりと、時によって飲み方を変える当麻に対しては、これだけはその時ごとに確認するしかない。しかも彼がミルク入りと言う時は、あたためた牛乳のことを指し、砂糖は入れない。砂糖入りと言う時は角砂糖二個のことを指し、ミルクは入れない。そんな小さな事ですらきっと征士は覚えているのだろうと、当麻は小さく笑顔を作った。 「何だ?」 気づいた征士が問う。いやさあ、と更に表情をゆるめて当麻は言った。 「お前っていい男だなって思ってさ」 何だそれはと怪訝そうな顔をして、征士は相手を見る。笑っている当麻は、たぶん何かを隠してる。それを聞き出すのは、まあ、コーヒーを飲んでからでいいだろう。 征士の思いをよそに、当麻は話し続けている。 「おれの好み覚えてるし、手際いいし、詮索しないし───あ、これは『いい奴』って言うのか」 コーヒーをカップに注ぐ手を、当麻はじっと見る。長い指、きれいだけれど男っぽい手。その手がすっと差し出されて、目の前にマグカップを置いた。 「詮索か……」