真夏ノ夢【PDF】
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発行日 : 2010.08.13 標準プリントアウト時 A6(文庫サイズ)/ 118ページ / 8.8MB ●TV本編とは関係のないオリジナル設定の物語です。 ●当麻5歳(『螢』)、征士8歳(『蜉蝣』)から17歳(『まほろば』)までの4編。 ●登場人物は征士、当麻、それぞれの家族。伸・遼・秀はほんのちょっとだけ。 ●成人向けの指定はありませんが、カップリング本です。
〔本文見本〕
地理の上ではその家は確かに隣家だったが、二つの建物の間には広い田と少しの畑が整えられて二軒を隔て、さらに古くからの防風林が視界を遮っている。直線距離で約一キロ。道は幅三メートルほどの土の道だった。 行きはよいよい帰りは怖い、と姉に脅されながらも征士は自転車の前後に保冷ケースを載せて家を出る。平坦な道はほぼ無風。夏の午前の陽射しを麦わら帽子と長袖のシャツで遮っても、夕方には真っ赤になってしまうだろうと思うと少し憂鬱になった。 それでもペダルを漕ぐ足は軽快だ。自ら風を作り、田園風景の中を走り抜けていく。林をやり過ごし畑のトマトを見送り目的の家へ着いた頃にはうっすらと汗を纏っていたが、同じ木造平屋でも自宅とは全く異なった趣の民家を目にして自然と笑みがこぼれた。 自転車を停め、ケースを降ろす。ほっとすると途端に蝉の声が耳に迫る。アブラゼミが多い。家の裏の鎮守の森とそこから続く山の中で鳴き競っているのだ。ケースを一つは抱え、一つは肩に掛けて歩き出す。玄関の呼び鈴を鳴らす。ほどなく引き戸が開かれ、初老の女性が顔を出した。 「おはようございます。今年もお世話になります」 「おはようございます。こちらこそよろしくお願いいたします。今年は、ぼん一人?」 ぼん、と呼ばれて征士は少しのくすぐったさを感じる。この人だけが彼をそう呼ぶ。おっとりとした彼女の口調でこう呼ばれると、何とも言えず安らかな気分になるのだ。 「はい。今年からは私が氷室の司を務めるよう申しつかりました。若輩ながら真摯に務めさせていただきますので、よろしくご指導くださいますようお願い申し上げます」 丁寧に言って深々と頭を下げる。姿勢がいい。この礼儀正しさと古風とも言える話し方とが彼の家庭環境から来ていることは間違いなく、また、彼女はそれを重々承知してもいたが、それでもこうして会う度に自分のほうこそ襟を正すような気分になるのを心地よく感じていた。 「ぼんも一人前になったということですね。──あら、もう、ぼん、なんて呼び方はしちゃ駄目ね」 笑って言うと、どうぞそのままで、と征士も楽しそうに返した。 「じゃあ、今年からはうちの孫にも手伝わせましょう」 征士にも家に入るよう示し、彼女は奥へと歩いていく。氷見という姓を持つこの家と征士の家との付き合いは長いが、征士自身が建物に上がるのはせいぜい三度目だ。征士一人で招き入れられたのは初めてだった。 「ぼんは今、六年生? それならうちの孫と同い年」 氷見に孫がいたとは征士には初耳だった。この家にいるとなればなおさらだ。彼女の娘夫婦が帰ってきているとも聞いていない。詳しく尋ねるのも失礼かと黙っていると、氷見は気にした様子もなく蚊帳の中へと声を掛けた。 「ほら、当麻。いい加減に起きなさい。畑の草むしりもさぼって! さっさと起きて準備しなさい、氷室の主が来てくださったんよ」 今まで聞いた彼女の声の中でもっとも威勢のいい声だと笑いそうになりながら征士は蚊帳の吊られた所に近づく。氷見は布団の脇の空間を征士に譲った。 「んー…ひむろの…ある…………へ…?」 蚊帳の中で影が身じろぐ。軽く驚いたような声に続いてぱっと開かれた目が、ちょうどその場にしゃがんだ征士の目とぴたりと合った。 ──『氷室』より